あ。あそこのシミみたいなのゴリラの形に見えるなー…。
パパヌーイが出ていって三日。
私は今背もたれにだらーんとなりながら天井をボーっと見ている。
うん、マジだ。これマジじゃん。見れば見るほどゴリラが振り返った時の横顔そっくり。はるか昔陰陽師的なのに封じられたゴリラかもしれない。なんでそんな振り返った時の形で封じられてしまったんだろうこのゴリラ。私なら少なくともゴリラらしく胸をドラミングしてる格好で封じられたい。
ちょっとやってみよ。
左手を突き上げて右手が胸のとこ…。うーん、イマイチだな。逆の方がなんかいいか。んじゃ右手が上で左手が胸のとこで…。お、こっちの方がなんかカッコいい。あ、利き手か。あるんだなゴリラのポーズにも利き手の有利不利が。
んでこっからさらに足をがに股気味に開いて…っと。おお、いいじゃん。よし陰陽師、この形でいっちょ封印…
――ガチャ
「……。…コホン、お嬢様」
「…」
「…」
――シリウ「ロド殿。入り口で一体な――」
「…」
「…」
「…」
―ドンドンっ
――ドンドンドンっ
玄関扉が叩かれる音だ。
「はぁはぁ…っ!お姉、ちゃんっ!はぁ…っ、お姉ちゃんっ!…はぁ…っ、ここ、開けてっ!お願いっ!早くしないと、おいらの母ちゃんが…っ、ぐ、ぐすっ、か、母ちゃんが…っ!」
ポーズが崩れる。気にせず足が音の方に向かう。
階段を降り扉を開ける。雨の匂いが入り込む。
「お母さん、どうしたの?」
私はしゃがんでびしょ濡れの少年に目線を合わせる。
「き、急に、た、倒れて…息、苦しそうで…。神殿の人はお祈りしかしてくれなくて…だから、おいら、あの時のお姉ちゃんを…」
「うん、聞いてるよ。お母さん、お話できてた?」
「…ううん。ひゅーひゅーって…」
「わかった。お姉ちゃんを案内してくれる?」
「うん、お願い、お願いします。母ちゃんを助けて…」
「お嬢様、なりません。必要なら私が運んできましょう」
「だめ、動かさない方がいい。案内して」
「お嬢様!…」
人だかりができている。みんな口々に祈っている。
「どいてくださいっ!」
私は少年と一緒に家に入る。
ベッドの上に女性が一人寝かされていた。
私はすぐに横につく。
「お母さん、聞こえますか?」
耳元で問いかける。反応は、ある。
呼吸は浅く速い。肩が上下している。「ひゅーひゅー」と音がする。唇が青白い。
入り口を見るとロドとシリウも到着していた。
「シリウ、周りの人にどいてもらって。できるだけ静かな状態に」
「…わかりました」
「聞こえただろう。患者の邪魔だ。出ていけ」
「ロド、布団を丸めてここに積んで」
ロドは一瞬だけ私を見て何も言わずに動いた。
「お母さん、少し体を起こしますね。こっちに寄りかかって」
前かがみで布団に腕を預けさせる。
「か、母ちゃん…う、ぐ、ぐすっ」小さな手が私の服を引っ張る。その目は一心不乱にお母さんを見つめている。
「大丈夫だからねー、安心してね。ボクが泣いちゃうとお母さんも心配になっちゃうからね」
「う、うん」
「うん、偉い偉い。そうだ、おうちの窓開けてきてくれるかな」
「う、うん。まかせて」
私はできるだけ笑顔でそう伝える。
お母さんの方に向き直る。
「ひゅー…ひゅー…」汗が浮いている。
「お母さん。私の方を見て」
私はできるだけゆっくり、落ち着いた声で話しかける。
「大丈夫。ゆっくりでいいよ。私を見ててね」
私が先にゆっくり呼吸をしてみせる。
「すー……はー……」
お母さんがつられるように息を合わせる。
「すー……はー……」
「うん、ゆっくり。いいよー、その調子」
…でも。
でもこれで治るわけじゃない。少し楽にして時間を稼いでるだけ。
お母さんの呼吸をみつつ視線だけを向ける。ベッドの脇、机の上、棚、台所…。
…ない。何もない。
「ひゅー…ひゅー…」
少しずつ音が小さくなってる。…良くなってるんじゃない。空気が動いてないんだ。
「お母さん。お母さん?私の声、聞こえる?聞こえてますか?」
「……う、ん……」
返事はある。でもさっきより遅い。
呼吸音を聞く。浅い。
視線も私を追えなくなってきている。
…なんとかする。何とかするしかない。
私は片っ端から引き出しを開ける。戸棚を開ける。瓶のラベルを必死に読む。…だめ。…だめだ。やっぱり、何もない。何も…できない。
お母さんの元に戻る。呼吸がさらに浅い。唇を見る。
…紫色がかってきている。だめだ。このままだと本当に…。……
――(咳を訴える外傷患者にA・B併用。翌日、咳の頻度減少。3例中2例。要追加観察)
……日誌…。パパヌーイの日誌。確か、咳が、減ったって…、書いてあった。パパヌーイ…っ!
「シリウ!パパヌーイを呼んできて!今すぐ!」
「わかりました」
シリウが雨に濡れ走り去っていく。
「お姉ちゃん、窓、開けたよ」
「ありがとう。お母さんの手、握っててくれる?声をかけ続けて」
「う、うん」
「ロド、ここお願い!」
「何をすれば?」
「お母さん見てて!私は他にできること探す」
パパヌーイが来るまで。まだやれることは何かあるはず。
……
…
「バァンっ!」
勢いよく扉が開かれる。
「パパヌーイ…」
そこには、蛇のような眼をした薬師が立っていた。よかった…、間に合った。
「まぁ。随分ひどそうじゃなぁい」
私には一瞥もくれずパパヌーイがベッドへ近づく。
「パパヌーイ、聞いて。この患者さん、呼吸が浅くて速い。喘鳴…ヒューヒューとした呼吸をしてて最初は会話に反応してた。でも今は返事が遅い。唇も紫色がかってる。さっきより呼吸音が小さくなってる。このままだと危険な状態で今すぐ…」
「…で?」
「…?」
「アナタ、私のやり方は嫌いなんじゃなかったかしらぁ?」
「それは…」
「それにぃ、今から私が薬を使うのも同じことよねぇ。だって患者の同意を得てないんだものぉ」
「…っ!」
言葉が出てこない。
私は薬師を睨む。見当違いの怒りだというのはわかっていた。それでも睨まずにいられなかった。
「――かあちゃん…!」声が聞こえる。少年の声。
見る。
ベッドの上で今にも消えそうな呼吸をそれでも続けている母親。
そのすぐ横で母親に声をかけ続ける少年の必死な表情。
母親の額に浮かんだ珠のような汗。
握りすぎて白くなった少年の爪。
私は、パパヌーイに向き直る。
「…お願い。パパヌーイ。患者を助けて」
私は頭を下げた。
「…お願いします。患者を、助けてください」
「…ふぅん?」
「まぁいいわぁ。どうせそのつもりで来たんだし」
そういって机の上に薬を広げていくパパヌーイ。
「突っ立ってないで、アナタもアナタの仕事をして頂戴?」
「…言われなくても、そのつもり」
「パパヌーイ、この状態で飲ませたら気道に入る。外から使えるものがいい」
「ふん、言われなくても最初からそのつもりよぉ」
「わかった。患者の容体を説明する。――」
パパヌーイが調合した薬をお母さんの胸部に塗り広げる。
塗り終わるとまた次の調合に入る。
私はお母さんに呼びかけ続ける。
少年も手を握り続ける。
ダメだ。変わらない。ほとんど反応がない。唇の色は相変わらず紫。
「パパヌーイこの薬は」
「過去に咳が楽になったって人が何人かいた薬よぉ。なぜだかはわからないけれど」
「…だめ、効果ないみたい」
「あらそぉ」
……いや。ほんの少し。
今、少しだけ呼吸が深くなった。
「パパヌーイ!効果あるかもしれない」
「なら、もう少し広範囲に塗ってくれるかしらぁ」
パパヌーイが次の薬を調合している横で、私はお母さんの喉から胸にかけて薬を塗っていく。
「お母さん、お母さん?聞こえますか?聞こえてますか?」
「は…い…」
目を見る。さっきよりも視線がついてきてる。唇を見る。
…少しだけ、色が戻ってる。
「お母さん、ゆっくり。すー…はー…」
「すー……はー……」
「そう、とってもいいですよ。ゆっくり。すー…はー…」
……
…
一時間後。
お母さんの呼吸がゆっくり一定になっていく。
そして、すーっと寝息に変わった。
「…母ちゃん?」
少年が、握った手に力を入れ直す。
私は「お母さん」と小さく呼びかける。まぶたが、ぴくりと動く。
「…大丈夫。眠っただけ。ずっと頑張ってたから」
唇の色は普通に戻っていた。
……
…
外に出る。雨はやんでいた。
ひんやりと湿気を帯びた街の中、少し離れたところにパパヌーイがいた。
「…」
「…あの」
「パパヌーイ…」
「…その、ありが…」
「助かったのねぇ」
親子が今、二人で寝息を立てているであろう家をパパヌーイが気のない表情で眺めながら言う。
「…うん」
「…ふぅん」
「…」
「…」
…そしてパパヌーイはゆっくりと伸びをした。
「……。うん。決めたわぁ、私ここに引っ越すわぁ」
「…え?」
「だってぇ、ここなら患者いるじゃなぁい?」
「え、いや!ちょっと!」
「別にいいでしょぉ?私がどこに住もうがアナタに関係ないしぃ?」
「いや、そりゃ…ダメじゃないけど。でも勝手に患者さんに試すのはダメ!」
「まぁだそんなこと言ってるのぉ?まぁ勝手にやっちゃうからいいけれどぉ」
「絶対にダメ!患者さんには許可、取ってもらうからね!」
「なぁにぃ?偉そうにぃ」
――
―
私は顎に手を当ててお嬢様を見る。
「いや私領主だし…!あ、もしかして私の一存でパパヌーイの引っ越し拒否とかできちゃうかも?」
「あらぁ?そんな権限ないでしょぉ?ただの領主サマにぃ」
「いや、たぶんある。きっとある。ねぇロド、ちょっと聞きたいんだけど…」
「ねえ聞いてる?ロド。ロドってば」
…ふぅむ。
このお嬢様は一体。あのような知識をどこで?
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